『量子の宇宙でからみあう心たち』-(5)‐非局所性

【7】からみあう心たち

 

 ・からみあう心の中へ

「一粒の砂に世界を、野に咲く花に天国を見よ。手のひらに無限を、一瞬に永遠をとらえよ」

からみあう心は世界をどのように感じとるのだろうか。上のウィリアム・ブレイクの詩は、その方法を探るヒントにあふれている。もうひとつの詩的な表現が、SF作家フランク・ハーバートの『デューン/砂の惑星』にある。登場人物のポール・ムアディプが、「スパイス」というドラッグを服用して、時間や空間を超える体験をするのである。彼の知覚体験のエピソードが次のように表現されている。

 彼が直観したのはひとつのひらめきだった。それは、正確さと意味ある誤りが同時に由来する源を限界まで照らしだすのであった。まるでハイゼンベルクの非決定性が干渉しているように、エネルギーの放出が、彼が見るものを暴きだし、そして変化させていた。

 そして、彼が見るものは時間の連結体であり……たかまった可能性がここで焦点化され、まばたきや不用意な声、押しのけた砂粒などの一瞬一瞬の行為が、なじみある世界を貫いた巨大なレヴアーを動かした。……この幻影によって彼は、身動きせずに静かにしたいという想いにかられたが、それもまた、重大な結果を招くことになった。

私の推測では、ブレイクの表現も、ハーバートの表現も、超心理の理解に向けた正しい方向を指し示している。日常感覚よりも深いレヴエルの実在では、私たちの脳も心も宇宙全体と緊密なコミュニケーションを行なっている。大きな器につくったゼリーの塊のなかに住んでいるようなもので、その媒体のなかでちょっと動いたり考えたりすることが、器全体に波及する。加えてその波動は、通常の時空間を超えて拡大するのである。

この「非局所的ゼリー」の性質のため、私たちは、他人の心、遠くの物体、そして過去や未来について情報を把握することができる。その情報は、通常の感覚器官を通してやってくる信号ではなく、私たちの心や脳が、他人の心、遠くの物体などと深いレヴエルで「すでに共存している」ことに由来している。このレヴエルに焦点を合わせるために、私たちは注意や意図を使っているのである。この観点から、超心理体験は、神秘的な「超能力」などではなく、からみあった実在の基盤に一時的な接触をしたことと解釈される。

量子的にからみあった粒子同士は、信号を交換しているわけではなく、それらは「相関」しているのである。超心理はいっけん情報伝達のように見え、量子的な相関の可能性が排除されやすい。しかし、前章で議論したような擬似テレパシーの状況は、情報伝達をともなわない協調現象を示している。これは超心理が量子的な相関として説明できる可能性を提起している。

さらに、私たちの身体も、心も脳も、全体論的宇宙で一体にからみあっていると想定してみよう。その場合、心は根本的に脳とは異なると考えたり、より過激に、意識によって実在が構成されると考えたりする必要はない。ただ、心と脳の一体システムは量子物体のようにふるまう、と考えればよいのである。そのシステムが宇宙全体の動的状態に敏感であれば、私たちは、かなり多くのできごとに反応できるのだが、それらの多くを騒音と同様に無視しているにちがいない。私たちは自分の身体が置かれた位置以外にいくつも10か所くらいの別の場所やできごとに興味をもっているだろう。それらはどれも、実際のところ、身近なものなのである。

というのは、私たちの無意識の一部分は、つねにそれらの場所やできごとに注意を払っている。騒々しいパーティ会場で自分の名前が聞こえると即座にわかるように、無意識の力によってそれらに興味ある要素が見つかれば、意識にのぼるのである。私たちの意識のほとんどは感覚入力に駆動されている。その感覚入力に駆動された脳状態も宇宙とからみあっているのだが、その局所的効果があまりに強く、また緊急の問題でもあるため、「背景」のからみあった特性に気づかずじまいなのである。才能のあるわずかな人々は、からみあった無意識へ、思いどおりに意識を向かわせることができる。しかし、それでも長い問その集中を維持することは難しい。平凡な私たちは、つかの間の興味深いできごとに注意を払うのを、無意識(個々の無意識、あるいは統合された全体の無意識)にゆだねているのである。

まれに、遠くの愛する人が危機に瀕しているとき、無意識の一部が感知し、意識的自己に向けて警報を鳴らす。この警報を虫の知らせや、何か意味あることが起きたという奇妙な感覚や、愛する人にかんする「つかの間の幻影」として体験する。さらにごくまれに、どこかで何か重要なことが起きたという確信をもつのである。こうした幻影は、記憶と想像力によって形成され、「どこでいつ」という情報を欠いた白昼夢のように感じられる。

後になって、愛する人が本当に危機に瀕していたとか、コミュニケーションをとりたいと思っていたとかと判明し、奇妙なテレパシーの事例と考えるのである。情報伝達のかたちに見えるかもしれないが、実際は、純粋なる「相関」である。それは、私たちがつねにつながりをもっている、全体論的な媒体で起きていることである。分離されていないので、情報伝達は必要ないのである。この実在への焦点化は注意によってなされ、感覚器官を通さない知覚は、記憶と想像力によってなされる。

 

●超心理現象は、なぜ実験室ではとらえにくいのでしょうか?

 

フランスの哲学者でノーベル賞も受賞しているアンリ・ベルグソンは、1913年にロンドンの心霊科学協会会長に就任しました。その講演で彼は、脳のひとつの機能は、「私たちが住んでいる世界に意識を向けさせる」ことだと述べています。ベルグソンは、意識が過剰な刺激で圧倒されないように脳がフィルターをかけ、その結果、私たちが身体的な生存に注力できていると考えていました。さらにベルグソンの講演内容を追ってみましょう。

もしテレパシーが実際にあるとすれば、それは検出されないくらい弱い効果で、いつでもどこでも働いている可能性が高いのです。あるいは、それが現れようとする瞬間、その効果を相殺するような障壁があるのかもしれません。私たちは絶えまなく電気を生成していますし、大気の帯電に応じて変化する磁場のなかで歩いてもいます。ところが、何千年ものあいだ、何百万人もの人々が電気の存在に気づかずにすごしてきました。きっと、テレパシーについても同様なのです。フィールド意識効果のような、集合的意識の証拠は、からみあ合う心でどのように説明できるのでしょうか?心は宇宙とからみあっています。ですから、他の心とも物理システムとも非局所的な影響を及ぼしあっています。神経細胞が脳でネットワークを構成して、脳の回路や意識する心(あるいは意識の相関物)を形成しているように、個々の心は、からみあう心たちのネットワークに寄与して複雑な「心の回路」を形成しています。集合的な超心理効果は、私たちの想像を超えたものでしょう。

 

●心と物の連関作用(念力)は、どのように起きるのですか?

 

からみあった媒体のなかでは、心も作用も「いまここ」に限られたものではありません。一瞬でも量子的非決定状態に入ったものはすべて、遠くの心の影響を受けると考えられます。これにより、物体のなかに本来的な非決定性があればあるほど、思考の影響(念力)をより受けやすくなる、と予測されます。こうして、岩よりもバクテリアのほうが、精神的に感応しやすいと言えるのです。原理的には、物体浮揚や瞬間移動などの大規膜な効果も可能とみられますが、そのような現象の実験室での報告はほとんどありません。その現象を安定して再現する方法はたぶん、極小の影響で大きな変化が起きる、エネルギーの平衡状態に働きかけるようにすることです。たとえば、ガラス管の片側に風船をつけて大きく膨らませ、他方の口をそっとコルクでふさいでおきます。心が、風船の気圧のバランスを片寄らせることができれば、コルクが勢いよく飛び出していくことでしょう

 

●超心理には信号伝達が必要に見えますが,量子的な相関は情報伝達をともないません。ですから、量子からみあいは超心理のモデルとして不適当なのではないでしょうか?

 

生物体は、材料の性質だけからは予想できない方法で、道具を活用することが知られています。同様に生命は、量子相関をコミュニケーションに使用する方法を発見しているのではないでしょうか。原子レヴエルではランダムに見える短いデータでも、生命にとって重要な意味をもつ、大きな効果をひき起こすことがあると言えましょう。「1億円の大当たり」という印刷文字も、大きな効果をひき起こすことがあると言えましょう。「1億円の大当たり」という印刷文字も、原子レヴェルでは意味をなしませんが、それを見る人間には、かなり大きなエネルギー効果をひき起こします。