プラトンの哲学(と思考盗聴犯)-藤沢令夫著 岩波文書

・ディオティマは、エロースとは、人間を始め死すべきものが「美しい物の中に子を生むこと」により、自分に代わる生命を後に残すという仕方で不死にあずかろうとする欲求である、といったことをソクラテスに語りきった。

・イデアに関して、プラトンは例えば「<美>そのもの」「まさに<美>であるもの」などを「イデア-」「エイドス」と呼ぶことも多いが、他の呼び方-「実在」「実有」(ウーシアー)、「本性」(ピュシス)、「あるもの」(ト・オン、タ・オンタ)、「真実」「真実在」(アレーティア、タ・アレーテ)等々-を用いることも多い。

「太陽」の比喩

「太陽」の比喩は、もう一度イデア論の思想を確認し、「見られる世界」(ホラ-トス・トポス=感覚(知覚)されるものの領域)と「思惟される(知られる)世界」(ノエートス・トポス=イデア界)とを区別することから出発する。「見られる世界」に太陽が君臨するごとく、「思惟(しい)される世界」には<善>が君臨する。太陽の光が届かない暗闇の中では、目は事物を見ることができないし、事物は見られることができない。太陽の光に照らされてこそ、「見ること」と「見られること」が可能になる。同様にして、<善>は「思惟される世界」において、「知られる」対象(それぞれのイデア)に心理性を提供し、「知る」主体に認識する力を与えることによって、「知ること」と「知られること」を成立させている窮極の原因である。さらにまた、太陽は見られる事物にただ「見られる」という力を与えているだけでなく、それら地上の物みなを生成させ、養い育むものである。ちょうどそれと同じように、「もろもろの知られるものにとって、ただ「知られる」ということが<善>によって確保されるだけでなく、さらに「ある」ということ・存在(実在性)もまた、<善>によってこそそれらにそなわるようになる-ただし<善>は存在(実在)とそのまま同じではなく、位においても力においても存在(実在)のさらにかなたに超越してあるのだが」

 最後の「存在(実在)のさらにかなたに(エペケイナ・テース・ウーシアース)超越する」という言葉は、のちにプロティノスなどの新プラトン派の哲学において、最高の教義を表現する聖句となった。

 それはともかく、ここで「存在(実在)」(ウーシアー)とか「知られるもの」(ノウーメナ、あるいはギグノ-スコメナ)とか言われているのは、「思惟される世界」のイデアのことに他ならないのだから、<善>は、それぞれの事象の原因であるイデアのさらに上位にあって、それらイデアがあること(実在性)と知られること(真理性)とを根拠づけている原因である、という関係が確定されたことになる。『パイドン』において未達成であった<善>原因の把握、およびそれとイデア原因との関係は、まずはこのような形で、少なくともそのアウトラインが与えられたといってよいだろう。あとに続く「線分」「洞窟」の比喩が、さらにこの輪郭の中身を描き込んでゆくはずである。

「線分」「洞窟」の比喩。教育理念と国家統治の基本原則

広義の存在全般を表す線分(AB)をまず、二つの等しからざる部分(ACとCB)に二分する。二つの部分(AC、CB)はそれぞれ、「太陽」の比喩のはじめに再確認された「見られるもの」(より包括的に「思わくされるもの」(ドクサストン)とも呼ばれる)の領域と「思惟されるもの」(「知られるもの」(グノ-ストン)とも呼ばれる)の領域(イデア界)を表す。次に「見られるもの」を表す部分(AC)を、動物・植物・人工物などの”実物”の領域(DC)と、それらの影や写像などの似像の領域(AD)を表す部分へと-両部分の長さの比が最初のニ分と同じ比(AD対DC=AC対CB)になるように二分し、また「思惟されるもの」の領域のほうも、同じ比に従って二つの部分へと分けて、結果として図に記した都合四つの部分ができるようにすそれぞれの領域の「真実性」また「明確性」の度合いの差を示し、全体として図の下に記した比例関係にある。

A  D   C              E    B

A「エイカシアー」D「ピスティス」C「ディアノイア」-数学 E 「ノエーシス」-「ディアレクティケー」B

A(映像知覚、感覚知覚)D(感覚的確信、直接知覚)C(悟性的思考) E(理性的思惟)B(のあり方)

さしあたって、「思わくされるもの(見られるもの)と思惟されるもの(知られるもの)との関係は、似像と実物との関係に等しい」(AC対CB=AD対DC)という比例関係の意味は明瞭であろう。

プラトンは、感覚(知覚)され思わくされる物事を、思惟され知られる対象としてのイデアの似像に相当するものであるとみなして、そのことを一つの線分上に比例関係の形で巧みに表示したのである。

では、その同じ「似像対実物」という比によって「思惟されるもの」の内に区分された二つの部分(CEとEB)とは何を意味するのであろうか?

ディアノイア(CE)

(1)数学は奇数・偶数や、さまざまの「形」や、三種類の「角」などを仮設として前提し、それらを既知で自明のものとみなして根拠を説明することなく、それらから出発して整合的な推論により帰結まで到達する。仮設のさらに上方に向かって、始原にまでさかのぼることをしない。

(2)例えば「<正方形>そのもの」「<対角線>そのもの」といった、思考によってしか観ることのできないものについて考察しながら、それの似像(近似的に現わしたもの)を考察の補助手段として用いる。

ノエーシス(EB)

(1)仮設を出発点とすることなく、文字どおりの「ヒュポ(下に)テシス(置かれたもの)」-いわば踏み台ないし躍動のよりどころ-となして進み、ついにはもはや仮設ではない無前提のものにまで至って、万有の始原に到達する。そして始原把握したうえで、今度は逆に、始原につながって続くものに次つぎと触れながら下降して、最後の結末(帰結)にまで至る。

(2)以上の過程において、感覚(知覚)されるものを補助的に用いることは一切なく、イデアそのものだけを用い、イデアを通ってイデアへ動き、イデアに終わる」

ここで「もはや仮設ではない万有の始原」と言われているのは、次の「洞窟」の比喩と照合しても、疑いもなく、「太陽」の比喩で確認された<善>を指している。「線分」の比喩の一番の眼目は、魂がいかにしてこの「万有の始原」である<善>に到達できるかということを、同じくイデア一般への魂のかかわり方でも、数学に見られる思考とは区別されるべき探求の行程(方法)という形で、原則的に示すことにあった。

「洞窟」の比喩

地下深い暗闇の洞窟。奥底の壁(ab)に向かって、囚人たち(cd)が縛り付けられている。上方はるかのところに火(e)が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。火と囚人たちの間についたて様の低い壁(fg)があり、その上(ij)をあらゆる種類の道具物品が、また石や木やその他の材料で作った人間及び他の動物の像が、差し上げられて運ばれていて、その影の動きが火の光によって囚人たちの前の壁面に投影されている。囚人たちは、子供のときからずっと手足も首も縛られたまま、動くことも、うしろを振り向くこともできずに、壁にうつる影しか見ることができないので、それら動物や器物の像の影を真実のものだと信じ込んでいる。-「われわれ自身によく似た囚人たち」の姿。

  e           j    g           d         b 

                     i     f           c         a    

-これが「洞窟」の比喩の状況設定である。この比喩は三つの比喩(「太陽」「線分」「洞窟」)の中で最もよく知られていると思う。要するに、あるとき囚人の一人が縛め(いましめ)を解かれて、目がくらむ苦渋に堪えながら洞窟内の急な登り道を力ずくで引っぱれていかれ、外界の太陽の光のもとに連れ出される。もちろん当初は、ぎらぎらとしたまばゆさで何一つ見えない。目を慣らすために彼は、事物の影や水にうつる映像を、ついでその事物を直接見ることができるようになってから、天空に目を向ける。そして夜に月や星を見ることから始めて、しだいに目を慣らし、水などに映った太陽の映像をへて、最後に太陽それ自体を観察できるようになる。

そのとき、彼はすべての真相を知る-この太陽こそは、四季と年々の移り行きをもたらすもの、目に見える世界の一切を支配するもの、さらには自分が地下で見ていたすべてのものにとっても、その原因となっているものなのだ、と。

比喩が意味するもの

いまにして思えば、洞窟内で「知恵」として通用していたものは、何だったのだろう。「次つぎと通り過ぎていく(壁面の)影を最も鋭く観察していて、そのなかのどれが通常先に行き、どれが後に来て、どれとどれが同時に進行するのが常であるかを最も多く記憶し、それにもとづいて、これからやってくるものを推測する能力をだれよりももっている者」。囚人の間で「知者」とたたえられるのは、せいぜいそのようなものだったのだ。ただし、もし彼が陽光の中から一度洞窟の奥深くへ降りて、まだ目が暗闇に慣れずよく見えない間に、そこに拘束されたままの囚人たちを相手にして、壁面を動くいろいろの影の判別を争わなければならなくなったとしたら、彼は失笑を買うことになるだろう。「あの男は上へ登って行ったために、目をすっかりだめにして帰ってきた」と。そしてこういわれる-「囚人を解放して上へ連れていこうと企てる者がいれば、彼ら囚人たちは、もしその人を捕えて殺すことができるなら、殺してしまうだろう」

もちろん、そのようにしてソクラテスは殺された、とプラトンは言っているのである。

洞窟内の囚人の住まい=「目に見える世界」(感覚界)。洞窟内の火=太陽。登って上方(外界)の事物を見る=「思惟される世界」(イデア界)への上昇。最後にかろうじて見てとられる太陽そのもの=<善>。

思考盗聴犯人の比喩

部屋の中の一人暮らしという洞窟の中に閉じこもって、被害者にリンクし、被害者の意識を自分の意識で被害者の真実と異なるような意識に変えて創発させ、その(性欲と金銭欲に踊る)影絵を現実と誤解して社会を不幸のどん底に至らしめている囚人、つまり殺人犯は、その事実を知った今も、思考盗聴し続けるだけの洞窟ぐらしから出られない、それだけ欲が深いのである。私はよく犯人に本を読め、自首しろ、というが、犯人は欲におぼれて踊り続けるだけである。自首した者からリンクはとかれると思われる。殺人の罪が世界中に公(おおやけ)になるまで、洞窟の比喩状態は続くであろう。「これ(犯人いわく電波)使って何しよう」、の毎日は現実世界が違和感に気づき始め、終焉を迎えるのである。

・教育理念と学科目

プラトンがこの比喩からさしあたって導き出したポイントが、二つある。一つは教育の理念。もうひとつは国家統治(政治)のあり方について。まず、教育とは何か。それはけっして、知識をもたない魂の中に知識を外から注入することーあたかも盲目の人に視力を外から植えつけるように-ではない。知識を学ぶ力と器官(知性のこと)は、はじめから各人が魂の内にもっているのだが、「ただその器官を-あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには、身体全体と一緒に転向させなければ不可能であったように-魂の全体と生成流転する世界から一転させて、実在および実在のうち最も光り輝くもの(=<善>)を観ることに堪えうるようになるまで、導いてゆかなければならない」のであって、教育とは、このような生成界から実在界への、魂の目の向け変え(ベリアゴーげー、メタストロペー)の技術にほかならない。ちなみに、このギリシア語のラテン訳conversioは、のちに宗教的な「回心」の意味に用いられるようになる。

哲人統治者となるべき者が教育の最高段階において学ぶ具体的な学科目も、この理念に沿って決められる。すでにプラトンはこの『国家』の第二巻から第三巻にかけて、幼少年時代に与えられるべき音楽文芸による感性の教育のことを詳細に論じていた。知性が未発達のころの、魂が柔かく可塑性に富んでいる年齢の間に、美しくよきリズムと、調べと、語りを魂の内奥に深くしみこませることが、どれほど重要であるかをよく知っていたからであるこれに対して、いま問われているのは最高段階での知性の教育であり、それは魂の目を「見られる世界」(感覚界、生成界)から、「思惟される世界」(実在界、イデア界)へ「向け変える」ことを目的とするから、そのことを準備する学科目としては、感覚でなく思惟・思考の行使を主とする数学的諸学科が選ばれる。すなわち、算数、幾可学、立体幾何学、天文学、音楽理論。

しかしこれらはあくまで「予備教育」-いわば「本曲」のための「前奏曲」-であって、本曲を演奏する」のは、先の「線分」の比喩でも数学と対比されていた「問答(対話)することの力」(=ディアレクティケー)にほかならない。しばしば無造作に、プラトン哲学は単純に数学を範とした理性(合理)主義だというようなことが言われるけれども、しかしプラトンは数学を予備教育として重視しながら、その限界の指摘もきわめてきびしく、哲学固有の思惟(しい)との区別は厳重であった。この教育プログラムの終りにあたっても、数学は「実在について夢みてはいるものの、覚めた目で実在を見ることは不可能」と言われ、そして、「哲学的問答法だけが、仮設を次つぎと破棄しながら、始原そのものに至り、それによって自分を確実なものにする、という行き方をする。そして、文字どおり異邦の泥土の中に埋もれている魂の目を、おだやかに引き起して上へ導いてゆく。われわれが述べたもろもろの学術を、この向け変えの補助者・協力者として用いながらね」と言われている。

強制されて統治する

次に、「洞窟」の比喩に託されたもう一つの、国家統治のあり方に関するポイントは、洞窟の外の明るい実在界に出た者が、そこに留まって至福の生を送ることを許されずに、もう一度暗い洞窟の中に降りてきて、定められた期間、洞窟内の統治の任にあたることを強制されるという点である。上方の世界で実在(イデア)を見てきた者は、目が暗闇に慣れさえすれば、「そこに居つづけの者たちよりも何千倍と良く見える」からであるが、そのようにして彼らが順番に統治の任にあたることはまた、「支配者となるべき人たちが、支配権力を積極的に求めることの最も少ない人間であるような国家、そういう国家こそが最もよく、最も内部抗争の少ない状態で治まる」という原則にかなうという点も大きい。

すなわち、上方の明るい世界で哲学的生を送る至福を知る者は、国の支配の地位につくことを-望ましいことでなく-「万やむをえない強制」と考えてそうする。「これに反して、自分自身の書きものを欠いている心貧しい人びとが、善きものをそこから引ったくってこなければ、という下心のもとに公共の仕事に赴くならば、よい政治の行なわれる国家は実現不可能となる。なぜならその場合は、支配の地位が人びとの闘争の的となるため、そのような自国内部の戦いが彼ら自身のみならず、その他の国民同胞をも滅ぼしてしまうのだ」

だが遺憾ながら、それが「現在の多くの国々」の実情なのだと、プラトンは言う。そう、そして二千数百年後のわれわれの「現在」の実情でもあります、と私。すなわち著者。そして私。